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このブログの中身をここに整理してまとめておきます。
管理人の興味のある順でだいたい…(コラ)。


【中国関連の本の感想・メモ】
■宮城谷昌光 『春秋名臣列伝』
 メイン
  ∟メモその1(石サク~孫叔敖)
  ∟メモその2(巫臣~子罕)
  ∟メモその3(晏嬰~孫武)
■陳舜臣 『小説十八史略』
  ∟その1(殷~春秋)
  ∟その2(春秋)
  ∟その3(戦国その1)
  ∟その4(戦国2)
■白川静 『中国古代の民俗』
■澤田瑞穂 『中国史談集』
  ∟メイン
  ∟明の「蒋欽」
  ∟刺青のはなし



【中国古典系メモ】
■元曲「趙氏孤児」
  ∟楔子
  ∟第一折(正末:韓厥)
  ∟第二折(正末:公孫杵臼)
  ∟第三折(正末:公孫杵臼)
  ∟第四折(正末:程勃)
  ∟第五折
『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』 +清地以立訳『通俗列国志』
『「史記」小事典』(世家編)
■魚返善雄訳 『物語西遊記』
■白木直也 『巴黎本水滸全伝の研究』



【歴史(日本史)小説】
■司馬遼太郎 『おれは権現』
■吉川英治 「大谷刑部」「茶漬三略」



【その他】
■金文学 『中国人民に告ぐ!』
■筒井康隆 『文学部唯野教授』

『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』

明代に成立したという『春秋列国志伝』について調べてました。で、

『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』
徳田武 編・解説  ゆまに書房  1983

なる本を見つけました。その解説に、『春秋列国志伝』について書いてあったので、それをまとめてみます。


解説で引用されている孫階第の『中国通俗小説書目』巻二清講史部によれば、『春秋列国志伝』は大別して二種類あるらしい。

1.『新刊京本春秋五覇七雄全像 列国志伝』 八巻本
▼明・万暦丙午(34年)、三台館の余象斗の重刊本
▼各巻に「後学畏斎余邵魚編集」「書林文台余象斗評釈」と題す
▼名古屋の蓬左文庫が所蔵

2.『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』 十二巻本
(以下『春秋列国志伝』と表記します)
▼明・万暦年間の刊行
▼各巻に「雲間陳継儒重校」「姑蘇キョウ[龍+共]紹山梓行」と題す
▼国立公文書館内閣文庫・北京図書館などが所蔵
ちなみに、内閣文庫の版本と北京図書館の版本は、同系統の版本であるが体裁が異なっており、朱篁なる人物の序文が北京図書館本の方にはついている。なお、北京図書館本は、万暦乙卯(43年)の刊行であるらしい。

双方、殷の紂王から秦の始皇帝までの約900年間を取り扱ったもののようです。内容がいろいろと異なっているらしい。


*   *   *


ちなみに、ゆまに書房から刊行されている、私が参照したこの本自体については以下の通り。

底本にしているのは、内閣文庫所蔵の『春秋列国志伝』十二巻本。これを影印して掲載しています。
内閣文庫本について、解説にて孫階第の『日本東京所見中国小説書目』(巻三・明清部二)を引用しており、それによればこの内閣本は、
・各巻の前に図五葉(10枚の挿絵。一葉は2ページ)がある
・最初には陳眉公の序と「列国源流総論」がある
・毎則(各章)の後には批評、毎巻の後には総批がついていて、これらの批評は行書で書かれている
・北京図書館本には万暦乙卯の朱篁の序があるが、内閣本にはない
・北京図書館本と同系統だが、北京図書館本が半葉(1ページ)11行であるのに対し、内閣本は半葉10行となっていて、版が異なる

…と、そんなところになるかと思います。


内閣文庫所蔵本の影印とともに、早稲田大学出版部刊行の『通俗廿一史』(第一・二巻)の日本語訳を掲載しています。この『通俗廿一史』は、江戸時代に清地以立(きよちいりつ)が翻訳した『通俗列国志』前・後篇を活字にしたもの。

清地以立(1663~1729)は、江戸時代の人。彼が翻訳・上梓した『通俗列国志』はどんな版本に基づいて訳してあるのかは明記してありませんが、解説によれば『春秋列国志伝』十二巻本の系統の本を底本にしたと推察されるとのこと。内閣本と同じ系統ということですね。

『通俗列国志』は、二度に分けて刊行されているとのこと。
原書『春秋列国志伝』の巻1~6の部分の訳は、『通俗列国志』25巻(題簽は「通俗周武王軍談」)として宝永元年(1704)に、巻7~12の部分の訳は、『通俗列国志呉越軍談』18巻として元禄16年(1703)に刊行されている。つまり、後半部分の方が先に世に出ているという不思議がある。

『通俗列国志』は、底本である『春秋列国志伝』を比較的忠実に訳しているようですが、部分的に加筆・修正・削除を加えているようです。それは読者のためであったり、訳者の信条から恣意的に改編したりと、いくつかの要因が考えられるようです。


*   *   *


書誌的なことはここまでにして、ゆまに書房刊の『春秋列国志伝』の方を見てみた自分の感想を…とはいえ、興味がある部分(主に鞍の戦いとエン[焉+邑:邑はおおざとへんで;]陵の戦いの場面)しか見てないので、これしきで感想らしき感想も書けないのですが; とりあえず見た感じをば。

春秋時代や戦国時代を扱っているので、『左伝』や『戦国策』、『史記』などの記述を多少いじっただけかと思ってページを繰っていたのですが、それどころではない史実の改変ぶりです(笑)。鞍の戦いでは、郤克が大負傷した後も暴れまわって敵を寄せ付けない強さを誇り、斉の逢丑甫(=逢丑父)を一撃で討ち取ったり(笑)、エン陵の戦いでは楚の養由基が苗賁皇の策に嵌って射殺されたりといろいろ滅茶苦茶。史書との違いを挙げ始めるときりがありません。正直噴飯ものですが、そのハチャメチャぶりには、いっそのこと面白さすら感じます。多分、他の場面もかなり史実とは異なる内容になっていると思われます。

本文上部には多少のコメントが入っており(こういうのを「眉批」と言うらしい)、本文の中にも時々小さい字で注が入ってます(割注ではなく、一行の注)。人名や地名の後によく入ってる気がします。たとえば「楚共王[焉+邑]陵大戦」という章では、苗賁皇が登場した後、彼の名の後に「越椒之子」という注が入ってます。人名や地名の後の注は、当たっていたり外れていたりで、必ずしも信用できるものではありません。郤に対しての注には「郤克之弟」なんて書いてありましたし(本当は郤克の子)。


…と、『春秋列国志伝』の書誌情報と簡易感想はとりあえずこんなところで。

『おれは権現』

『おれは権現』 司馬遼太郎 講談社文庫 2005年(新装版)



戦国時代という荒れた時代に名を現した個性的な人物たちの短編集。全7編が収まってます。各編の主人公と梗概を以下に…


■愛染明王
福島正則が主人公。
桶屋の倅だった彼が橋の上で人を殺したのをきっかけに武士にならんことを志し、秀吉に仕えて武功を重ねていく。関ヶ原の戦いの前の小山会議では豊臣家の武将が徳川に附く決定的な役割を果た(すように仕向けられ)し、関ヶ原では東軍一の奮戦をして見せる。しかし、単純にして勁烈な性格を徳川方に存分に利用された後は、城普請を無断で行ったと幕府から言いがかりをつけられ、不遇の晩年を過ごす、というお話。
正則の性格の単純さは、時に鬱陶しさも感じるのですが、心の根底には優しさを持っていて、時に大げさなほどに人に好意を示すところなどには親近感が持てます。水滸伝で言えば黒旋風の李逵タイプだと思います…李逵よりヒドイこともしてますが(汗)。いい意味でも悪い意味でも単純すぎる人間の、不幸が感じられる一編。


■おれは権現
関ヶ原では福島正則の配下として武功を挙げた伝説的な武勇の持ち主である「笹の才蔵」こと可児才蔵のお話。
妾のお茂代が、才蔵が全く子を生さんとしないので、その原因を探っていく…というのが大筋になりますでしょうか…。その中で、才蔵はもともと酷く臆病だったこと、出来助という山伏に出会ったのがきっかけで豪勇に生まれ変わったことなどが分かってきます。子を生そうとしない原因も、彼のその過去の中にあります。
主人公は才蔵ですが、妾のお茂代も副主人公と言えるくらいに目立ってます。彼女の生涯の顛末にも含みがあります。


■助兵衛(すけのびょうえ)物語
宇喜多家家臣・花房助兵衛が主人公。
この話を読むと、宇喜多家の家老たちって本当にアクが強いな…というのが分かります…。秀家がどうすることもできなかったのも、秀吉没後に起きた例の宇喜多騒動(家臣が戸川派・長船派に分裂して対立した事件)で大谷吉継や榊原康政が仲介に入ってもなかなか片付かなかったのも、宜なるかな…という感じ。ちなみに助兵衛は宇喜多騒動に於いては戸川派で、秀家がかばっている長船派と決裂して、結局宇喜多家中を去って家康に属してます。
助兵衛は、主の秀家は言うまでもなく、秀吉にすら不遜な態度を見せる男だった。が、戦場に立てば功名心に燃え、その行動力は甚だしいものだった。その武功狂いの例として朝鮮出兵のときのエピソードが引かれ、剛直すぎて周囲の雰囲気を読めずに損するところも描かれてます。その点、正則に似ているかもしれません。
彼が求めるのは武功ばかりで女性に興味がなさそうなのに、女性の小指の骨らしきものを大事に懐に仕舞っていて、それをたまたま拾った吉備之助という巫女がその由来を明らかにしようとします。が、結局そこのところは謎のまま。


■覚兵衛物語
加藤清正の家臣・飯田覚兵衛の話。
加藤家家臣の覚兵衛と森本儀太夫とがまだ8つの子供だったころ、子供の喧嘩のなりゆきで、夜叉若という遊び仲間に仕えると誓いを立てた。この夜叉若が後の加藤清正で、清正が知行地を得ると、覚兵衛と儀太夫は本当に清正に仕えることになる。しかし覚兵衛は詩文を習ってはなはだこれを好んでおり、武勇で身を立てたいなどとは思っておらず、いつも武士を罷めたいと思っていた。しかし、覚兵衛自身の優れた用兵の才と武辺とが清正の要する所となり、覚兵衛はその才能によって「不幸にも」武士として清正に仕え続けることになってしまう。
「清正のせいで一生を誤った」と言い、本意ならずも加藤家の柱石となった覚兵衛ですが、本当に加藤家に未練がないかというとそうでもなく…。自分が成し遂げてきた事業と、昔からの理想、どちらが晩年の彼にとって重いものだったのか…。


■若江堤の霧
大坂の陣で戦死した若武者・木村重成のお話。
嘗て織田・柴田・宇喜多に仕えて転戦し、関ヶ原の戦いの後は隠居して連歌を教えていた薬師寺閑斎は、大坂方主力と期待されている木村重成の助言役を頼まれる。閑斎は重成をよく知らなかったが、妾に聞くと、大坂のおなごであれば重成を知らぬ者はいないという。実際会ってみると、確かに容姿涼やかな青年であるが、礼儀正しく、詩文や兵書にも親しみがあり己を知っている。閑斎も、彼には将器があると感心する。その若さには不釣り合いなほどの胆力を持ち、死後はその劇的な生涯から人々の記憶に残り続けた青年にとっての大坂の陣が描かれてます。
この話の前半には、重成の名しか出ておらず、彼が登場するのは中盤から。大坂の陣で閃光のごとくはかなく鮮烈に散った青年を、淡々と、しかし彼の性格の要点を抑えつつ描いている印象です。


■信九郎物語
長曾我部元親の庶子にして、盛親の異母弟である信九郎康豊のお話。
幼い頃、母に連れられて摂津の村落に来て、農家の子として育った。その元服の際に、自分が長曾我部元親の子であることを初めて教えられる。その後もしばらく、長曾我部の血を引くことを隠したまま村で暮らしていたが、母と祖父が自分を出家させようとしていることを知り、いっそ武士となろうと志すようになる。牢人が集まるという近くのほろほろ(虚無僧)の寺で、関ヶ原の戦いでは西軍大谷隊で小部隊も率いた野添勘兵衛という老僧と懇意になり、兵法や武芸を身につける。後、信九郎の存在を知った大野治長の使者が、家康との決戦のために彼の出馬を請いに来た。信九郎は、勘兵衛ら数人の牢人を引き連れて大坂城に入り、生き別れた兄・盛親との再会を果たす。敗北必至の戦いで、各々が各々の信念を持って進退を決めていきます。
信九郎の生き様は、兄に出会うところまではほとんど義経と同じ。大坂城に入った後の彼ら主従もまた義経にそっくりです。重成のような死者の数奇もありますが、生き残った者の数奇をここに見ることができます。


■けろりの道頓
かの有名な「道頓堀」を掘った安井道頓の話。その生涯についての記録はほとんど残っていないそうで、このお話も司馬さんの創作部分が多いのでしょうか…。詳しくないのでそこのところは分かりません。
道頓はふしぎな人物で、顔つきは英傑然としているのに、いつもぼーっとしていて何を考えているのかよく分からない。従弟の道卜が見るに、志さえ持っていれば天下を取れるのではないかと思えるほどの器を持ち合わせているのに、全く欲がなく大身の百姓という立場で満足し、街で秀吉に話しかけられただけでもはしゃいでしまう。また、何事に対してもけろりと無頓着のようで、手塩にかけて育てた妾を秀吉に所望されたときも、一度顔をしかめただけで献上してしまう。愚直ともいえる人の良さを持ち、街で声をかけてくれた秀吉に対して、百姓の立場から無償の忠義を貫いた市井の人の話です。
器が小さいのに志ばかりが大きくて、結果的に身を滅ぼす人物は古来少なくないですが、その逆で、器が大きいのに欲を持たずに自らの立場に満足したのが道頓でしょうか。


取り上げられた人物たちは、平穏な世であれば、馬鹿にされたり爪弾きにされるようなあくの強い人物たちが多いです。戦国という波乱の時代が、彼らの名を今に残したといえるんじゃないでしょうか。

「大谷刑部」「茶漬三略」

「大谷刑部」/「茶漬三略」  吉川英治



吉川さんに大谷さんを扱った短編があると聞き、図書館で全集を借りてきました。
戦国の有名人が多数登場する短編は、とりあえず上記の二編を見つけました。
文庫でしたら、ともに講談社の吉川英治歴史時代文庫の『柳生月影抄』に入っているようです。



■「大谷刑部」

言うまでもなく、大谷吉継が主役。家康が会津の上杉討伐に向かったあたりから、関ヶ原の戦いまでを、吉継中心に描いています。上杉討伐にむけて諸将がバタバタと兵を会津に向ける中、吉継の乳母の娘(創作の人物と思われます)が登場し、吉継が好きだった菓子を、垂井に宿営する彼に届ける場面から話が始まります。

吉継の癩病の症状の描写が細かいです。乳母の娘は、彼女の目を通して吉継の病状を描写するためにに登場しているような印象を受けました。癩病の症状がいかなるものなのか知らないのですが、この描写を見ていると背筋が寒くなります…。でもそれ故に、そんな病状にも関わらず隔意なく接する三成の優しさがより強くなるような気がします。

三成の子を引き取るため垂井に宿営する吉継のもとに、三成の使者が訪ねてくる。使者は三成の子は連れず、大事な話があるからと、三成の居城・佐和山城への来訪を求める。三成は吉継を迎えると、その病状の悪化に心を痛めつつも、家康討伐の大挙を打ち明け、吉継の参画を求める。吉継は三成の計画を無謀だと諫めるが、三成に勧められた茶の香りに、過去に茶会でしでかしてしまった自分の大失態を三成がかばってくれたことを思い出して、三成と生死を共にする覚悟を固める。ここの佐和山での三成とのやりとりが、この一編のメインになるかと思います。
関ヶ原の戦いでは、結局小早川秀秋の裏切りで大谷隊は壊滅、吉継の最期で話の幕は閉じます。関ヶ原の戦いの描写の方はけっこうあっさりしてます。

感想は…やっぱり三成は馬鹿正直で、刑部は義理堅いいい友だなぁ、と言う感じ。自分の安っぽい感想ではそんなことしか言えなくてすみません…; 吉継が病に冒される前の姿を知っているが故に、佐和山で久しぶりに出会った吉継に、もう目も見えずお前の笑う顔も見られぬ、と言われて愕然とする三成に、優しさが感じられてよいです。

あと、話の筋とは関係ないのですが…関ヶ原の戦いの最中、西軍に与して動くよう秀秋に使者を送る武将の中に、小早川隆景の名前があったのですが…たぶん小西行長と間違ったんですよね…ちょっとびっくりした。でも、巷説の中には、そういう伝承もあるのかも…と思ったりするのですがどうなんでしょう。詳しくないので分からんです;
あと、宇喜多さんの名前の表記は「浮田」の方になってました。チョイ役で左近も出てきます。ほんとにチョイです…。関ヶ原に参戦する西軍・東軍諸将の名もちらほら。


■茶漬三略

主人公は柾木孫平治という男。羽柴秀吉・明智光秀が登場する短編です。
孫平治の視点からほぼ全編が語られてます。孫平治が牢獄の中で猿(後の秀吉)に会って悪事から足を洗い、美濃の斎藤家の骨肉の争い、はたまた主と仰いでいた光秀の裏切りを目にし、その悪行に耐えきれなくなって、ついに猿――つまり羽柴秀吉に必死の思いで身を投じるのが話の骨子でしょうか…。歴史上のできごとでいえば、秀吉が毛利方の清水宗治の自刃を条件に毛利と和議を結び、大返しをして姫路城に入り、これから光秀を討つ、というところで終わってます。
孫平治という男の視点で、秀吉の性格の健康さを描いている、という感じの一編でしょうか。
チョイ役で、細川藤孝(幽斎)や安国寺恵瓊も顔を出します。



吉川さんの本は大好きなのです。歴史に強い興味を持つようになったのは吉川さんの『新・平家物語』がきっかけだし、三国志に足を踏み入れたのも、吉川さんの『三国志』が最初のきっかけだし…。しかし、まさか今になってもこんなにどっぷり三国志にはまることになろうとは思ってませんでした(笑)。短編は今まで読んだことがなくてちょっと新鮮でした。個人的には…長編の方が好きかも(コラ)。吉川さんの描く関ヶ原も見てみたかったな、と…。

『春秋名臣列伝』メモ・その3

春秋名臣列伝メモ、ラスト5人です。だんだんメモが長くなっていく…;;



■晏嬰■
管仲の後に出た斉の名宰相・晏子。諸葛亮が作ったといわれる「梁甫吟」が晏嬰を詠ったものなので、三国スキーさんは知ってらっしゃるかと。生前から吝嗇家として知られていて、父の晏弱を葬るにしても礼の規定以下の規模だった。故に、礼容を重んずる孔子からその点で批判を受けた。礼容を守るか、現実に即して倹約するかで、孔子と晏嬰の考えは逆だったかも。孔子が斉を訪れた際も晏嬰は、外の飾りを立派にする孔子は斉の政治には不要だと退けている。が、孔子の弟子・曾子は、「恭敬の心があった晏子は礼を知るといえよう」「国が奢っているときに君子は倹約を示すのだ」と言って肯定した。また福祉を奨励し、主の景公は晏嬰の考えを受けて、身寄りのない者を国で養った。晏嬰が死ぬと景公に直言する者はいなくなり、お追従ばかりを聞く景公は嘆いた。

▼斉の景公
霊公の子。兄の荘公の後に君主となる。斉に来た孔子を召抱えようとしたが、晏嬰が反論したので登用しなかった。晏嬰の補佐を受け、社会福祉政策を行った。
▼陳乞
陳無宇の子。景公の死後、後継者問題に乗じて斉の有力者を屠った人。強力だった国氏・高氏と他の大夫たちを反目させ、二氏を斉から追い出した。陳乞の子が陳恒(田常)で、彼が斉を簒奪する。



■季札■
呉の賢人。呉王・寿夢の末子。寿夢は君主に立てたがったが季札が頑なに断ったので、結局長男の諸樊が呉王を継いだ。兄たちは順に王となり、最終的に季札に位を譲ろうとしていたが、呉が外交関係を温める必要に迫られると、季札が使者となって中原諸国を訪問した。魯では、題名の分からぬ歌を聴いて的確な感想を述べ、晋では趙武・韓起・魏舒に会って「晋はこの三族のものとなりましょう」と予言した。徐という国に立ち寄ると、徐の君が季札の剣に目をとめた。後に徐に立ち寄ると、徐君はもう逝去していた。季札は徐君が剣を欲していたのを察しており、その墓の木に宝剣を掛けていった。ある人が不思議がると、「私はこれを徐君に差し上げようと思っていた、その我が心には背けない」と答えた。呉王夫差の代まで生き続けた。

▼寿夢
呉王。呉の国力を伸ばした明君。
▼諸樊
寿夢の長子。楚との戦いで戦死。季札にまで王位を伝えるよう言い残していた。
▼餘祭
寿夢の次子。兄の遺言に従い、季札を延陵に封じた。越の捕虜に不意を突かれて殺された。
▼句餘(餘昧)
寿夢の三子。楚と越に挟まれた呉が生き残るには中華の諸国との関係が必要と考え、知識豊富な季札を使者として諸国を訪問させた。
▼呉王僚
寿夢の庶子とも、句餘の子とも言われる。句餘の後呉王となった。闔閭の命を受けたセン[魚+専]設諸(=専諸)に暗殺された。
▼屈狐庸
晋の巫臣の子。巫臣が行人(使者)となって呉王寿夢と国交を持った際、軍事顧問として屈狐庸を残して行った。寿夢に気に入られ、宰相にまで上った。
*おまけ:諸国訪問中の季札が一目置いた人たち
 [魯]:叔孫彪
 [斉]:晏嬰
 [鄭]:子産
 [衛]:キョ伯玉・史狗・史鰌・公子荊・公叔発・公子朝
 [晋]:趙武・韓起・魏舒・叔向



■キョ[艸+遽]伯玉■
衛の大夫。名はエン[玉+爰]。衛の良識者の代表格。孫林父が献公を攻めようとしてキョ伯玉の賛意を得ようとしたが、伯玉は「(君主が愚昧だからといって)奸(おか)したところで、今よりよくなることはない」と言って、乱を避けて国外に去った。後に衛に戻り、献公が帰国した際にまた出国した様子だが、また衛に戻ったらしい。孔子とも交流があり、臣下としての進退を称賛された。『淮南子』には、衛の宰相となった伯玉のもとに子貢がやってきて治国の法を訊ねると、「治めないことを旨として治めます」と答えた、という話が残っている。

▼弥子瑕(びしか)
衛の霊公のとき国政を担当していた。
▼史鰌(ししゅう)
衛の大夫。弥子瑕を退けてキョ伯玉を用いるよう霊公に進言したが用いられず、その死に際しても、伯玉を推挙し、弥子瑕を退けて主君を正すことができなかった自分を悔いた。霊公が弔問にきてそれを知ると、伯玉を召し出して弥子瑕を退けた。
▼孫林父
衛の卿。献公と対立し、関係の修復が不能だと判断すると、献公からの使者を殺し、公を衛から追い出した。後、献公が帰国すると、献公を擁護する大夫たちに攻められた。孫林父は、食邑の戚ごと晋に投降した。後、季札が戚を通った時、鐘の音が聞こえた。季札は「主君に対して罪を犯して、恐懼するだけでも足りないのに音楽を奏でるとは」と非難を口にして、戚に泊まらず去った。それを知った孫林父は生涯音楽を聴かなかった。
▼衛の献公
大臣の孫林父と対立しており、さらに彼をばかにするようなことを再三行ったので、ついに攻められて斉に亡命するはめになった。その12年後、衛に戻ることができた。
▼孫カイ[萠+刀](刀=りっとうで…)
孫林父の子。献公に面会した時、献公が師曹に父を馬鹿にする歌(『詩』巧言)を歌わせたので、父にそれを伝えた。これを聞いた孫林父は、もう献公との関係は修復できず、このままでは殺されるに違いないと考え、献公を攻めて衛から追い出した。
▼師曹
衛の楽人。以前献公に300回も鞭打たれたことがあり、それを恨んでいた。献公が孫カイの前で「巧言」を歌わせようとすると、進んでこれを歌い、これがきっかけて孫林父は献公を攻めることを決意した。



■伍子胥■
名は員(うん)。伍奢の子。楚の出身だが、父と兄を楚の平王に殺され、楚に復讐するため呉に仕える。呉の公子光(のちの闔閭)に目をかけられ、闔閭が即位すると楚を攻め、楚を疲れさせると、さらに攻め入って楚の都・郢を陥落させた。仇の平王は既に死んでいたので、その墓を発いて屍に鞭打った。闔閭が死んで夫差が立つと伍子胥は疎んぜられ、最後は自殺させられた。ちなみに斉の王孫氏は伍子胥の子孫。夫差に疎まれた伍子胥は、わが子を斉の鮑氏に託して、伍氏の血胤を保った。

▼伍奢
伍挙の子。太子建の教育係だった。費無極が「伍奢と太子建が叛こうとしている」と平王に讒言したため、平王に問責された。まっすぐな伍奢は、平王の悪事を面と向かって批判した。平王の激怒を買った伍奢は捕らえられ、子の伍尚とともに殺された。
▼伍尚
伍奢の子。伍子胥の兄。奸臣・費無極は、伍奢とその子を皆滅ぼさんと謀り、平王を使って、伍尚・伍子胥兄弟が朝廷に来れば、捕らえた父(伍奢)を赦す、と伝えた。伍尚は弟の伍子胥に向い、自分は出頭して父と共に死ぬが、お前は呉に行って仇を取ってくれ、と言って都に行った。伍奢・伍尚は都で殺害された。
▼楚の平王
名は棄疾。共王の末子。兄の霊王(名は囲)を倒し、また他の兄たち(公子比・公子黒肱)を自殺に追い込んで即位した。費無極を重用し、苛政を布き、また息子の建のために迎えた秦の公女の美しさに目をとめて我が物とするなど、放恣な王であった。
▼太子建
平王が蔡にいた頃、蔡の封人(関守)の娘を愛して生まれた子。費無極を嫌っていたので、彼の計によって反逆の罪を着せられ、父に誅殺されそうになるが、誅殺の命を受けた奮揚という者がこれはおかしいと思い、密かに太子建を逃がした。のち、亡命先の鄭で殺された。
▼費無極
平王の奸臣。自分の敵となりそうな太子建や伍奢を讒言して楚から消した。呉王闔閭が立ったのと同じ年に、楚の令尹・子常に誅殺された。
▼呉王闔閭
名は光。諸樊の子とも句餘(餘昧)の子であるとも言われるが、定説はないらしい。伍子胥が紹介したセン[魚+専]設諸という刺客に呉王僚を殺させ、即位した。伍子胥と孫武を得て補翼とし、ついに仇敵である楚の都を陥落させるに至った。越を攻めた際傷を負い、死去した。
▼申包胥
楚の臣。友の伍子胥が復讐を誓って楚を出る時、伍子胥に向って「お前が楚を滅ぼすなら、私が再興する」と言った。楚都・郢が陥落すると、秦に行って援軍を乞うた。秦の哀公は最初断ったが、申包胥が朝廷の外で七日間哭き続けるので、ついに折れて軍を与えた。申包胥はこれを率いて楚に戻り、呉の主軍を破った。「申」という氏を見ると、申叔時(エン陵の戦いに向かう子反の死を予言した人)を思い出すが、同じ一族か…?
*楚の共王の子の一覧あり



■孫武■
呉の臣。言わずと知れた希代の兵法家・孫子。『左伝』にその名は見えず、『史記』に記述がある人物。生まれは斉で、斉の陳無宇の子・子占が孫氏を名乗ったというが、孫武が彼の子孫か否かは不明。その著作を見た呉王闔閭に気に入られ、闔閭の後宮の女たちを調練してみよと言われると、命令を遵守しない女を容赦なく処刑し、命令を徹底させた。気分を害されたもののその力を認めた闔閭は孫武を用い、孫武は伍子胥とともに闔閭の腹心となって才能を発揮した。が、その業績の詳細は分かっていない。闔閭没後は、史書にその名を見出せなくなる。



…これで、春秋名臣列伝の20人のメモ終わり!
これで少しは春秋の人を覚えられたかな…?(覚えてもすぐ忘れてしまうけど!笑)
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八和

Author:八和
三國無双と三国志と水滸伝がだいすき。普段本を読まないので、このページを作って自分を鼓舞してます。

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